ネッロ・サンティは「音楽を愛していた」というよりも、生きる事=音楽だった。 父親が趣味で集めていたクラシック音楽のレコードを聴いて育ち、4歳の頃、アドリアに来た《リゴレット》の巡業公演を観て、指揮者を志す。この時から「偉大な作曲者の意図を、最高の状態で再現する」事が人生の目的となった。それを邪魔する事柄に対して立ち向かう姿勢は、 幼少時から既に育まれていたようだ。「小学生の頃、ラジオのオペラ全曲放送に間に合うように数分だけ早く家に帰してくれと先生に懇願したのに却下されたので、 ドアをバンッと閉めて帰ってやった」と武勇伝を語っていた。彼にとってラジオやレコードこそが真の学校だったのだろう。
彼が敬意を抱く作曲家達の意図を理解するため、 指揮科ではなく、パドヴァ音楽院の作曲科で学んだ。そして20歳の時に、念願の《リゴレット》で指揮者デビューを果たす。その後はイタリア国内外で振り、リハーサル時にオーケストラの中で欠席者がいると、その楽器を代わりに弾いていたため、「何でも弾けるマエストロ」が育った。
1956年にリオンで《蝶々夫人》を振った時の主役、ミキコ・イワイさんが チューリヒ歌劇場でも蝶々さんを歌った際にサンティを《運命の力》に推薦したため、’58年チューリヒにデビューし、地位を確立した。やがて当歌劇場専属のバレリーナと恋に落ち、チューリヒに居を構える。いつも 一緒に行動していた愛妻と3人の子供、末には4人の孫に恵まれ、家族を愛したが、彼の頭の中にはまず音楽があった。
「音楽は贅沢だ。生死に関わるものではない。 だからこそ、一流の音楽を提供しなければ、それはただの無駄になる」と、世界中のどこへ演奏旅行に出ても、観光することは殆どなく、譜面を読み込んだ。写真記憶力があり、全て暗譜で振ることでも有名だったが、それは持って生まれた記憶力だけで成せる技ではなく、常に音楽の事を考え、リハーサルに向けて夜も起きて勉強する毎日があったから可能だったのだ。
最高レベルの音楽へ到達するために挑む小学生の頃の姿勢は、指揮者になっても変わらなかった。楽団員や歌手のミスも、怠慢から発生したものだと判断すると容赦ない。公演中に携帯電話が鳴った時も、音楽を止めて短く鋭く窘めた。有名でも自分の声ばかり聴かせたがる歌手との共演は避け、無名でも自分の考える音楽を再現してくれる音楽家を推した。音楽性がない歌手も成功に導き、立派な声を持たない歌手でも、オーケストラを寄り添わせ、自分の音楽を織り上げた。自分の娘ばかり使いたがるという陰口もあるが、「自分の音楽を表現してくれる歌手がいるのに、目の前の歌手が自分の棒のように歌ってくれないと健康に悪いから」と、スカラ座などいくつもの歌劇場で、キャスティイングのために出演を辞した。そのような姿勢は音楽界で「出世」していく妨げになるためにマネージメントも難しく、最後は息子がマネージャーを務めた。それらは身内贔屓ではなく、彼の音楽を実現する手段だったのだ。
N響との本番前の会場リハーサルで、対向配置を望んだのに叶えられなかったため、 キングコングのように巨体で譜面台や楽器を動かし始めて驚愕させたが、その晩の成功により、次の共演からは対向配置が恒例となった。ハンブルグ州立歌劇場でも、舞台上に全裸のモデルが出る演出の際、リハーサル中に楽団員達が裸を視界に入れようとして集中しないので、ピットの端に立たせて目の保養をさせてから稽古を再開したという(!)。読み替え演出で作品を壊す演出家も避けた。以前、「ノーカット版の演出なのに、カットを施して残念だった」という批評があったが、「キャストの力量が不十分なのにノーカット版に拘るのは音楽に失礼」という当然の決断だったのだ。
前述のイワイさんなど、音楽的な義理も通した。どの歌劇場からでも来日公演を振るオファーが来ると、「初来日はヴェローナ野外劇場のお陰だったが、日本の一流オーケストラに客演する立場になった今では、 いかなる歌劇場とも来日するべきではない」と断っていた 。そんな部分が日本と呼応するのか、日本の礼を尊ぶ食文化や伝統、そして日本人に敬愛を抱いていた 。
「指揮は人に教えられるものではない」という考えで、指揮科の教授やマスタークラス等を引き受けなかったが、才能のある若手がリハーサルを見学する事は援助した。彼は音楽伝統継承の危機を憂いていたのだ。彼の最後の指揮は2019年3月19日《ランメルモールのルチア》だったが、私達はどのようにその伝統を受け継いでいけるだろうか。
90歳祝賀コンサートの企画も始まっていた矢先の「老衰」「大往生」と言える突然の死は、「指揮台で死にたい」と望んでいたサンティを、盟友だったベルゴンツィが、テバルディ、プロッティ、ジャイオッティのキャストでヴェルディオペラを上演するために天国へ呼んだからかもしれない。
著名人が寄せた追悼文
プラシド・ドミンゴ(テノール / バリトン歌手・指揮者)
マエストロ サンティと私は、どれだけの録音と公演を共にしたでしょう。初めてのアリア集レコード録音も指揮してくれました。ハンブルグ州立歌劇場では私のドイツデビューとなった《トスカ》以来、《ボエーム》など多数共演しました。公演後には宿泊していたホテルのバーで、彼がピアノを弾き、私が歌って過ごしたりしました。私達の子供達も一緒に遊んで大きくなりました。
ヴェローナ野外劇場でのデビューで《マノン・レスコー》のデ・グリューを歌った時も彼の指揮でした。そしてスカラ座でも、思い出が沢山です。
彼は古くからの伝統的な歌い方を、往年の歌手達のレコードからすっかり研究し尽くして、声の色やフレージング、ブレスの場所まで知っていました。まるで百科事典のようなそれらの知識から、歌手達にとって参考になるポイントを教えてくれるのです。彼の才能、沢山の稽古、ジョーク、暗譜で振る音楽の天才!喜びと音楽性に満ち溢れたキャリアに最後の温かい拍手を贈ります。
レオ・ヌッチ(バリトン歌手)
マエストロ サンティは私が一番多く共演した指揮者です。1979年にハンブルグ州立歌劇場の《椿姫》でデビューした時、そして翌年にチューリヒ歌劇場へ《ルイザ・ミラー》でデビューした時もサンティの指揮でした。メトロポリタン歌劇場で歌う時は、サンティのアパートを借りるほど家族ぐるみの友情を育み、彼がメトで振らなくなったので、私も2004年の《ルイザ・ミラー》以来行くのをやめました。それはただの友情ではなく、一緒に働く楽しさが土台にありました。沢山の事を彼から学び、沢山の素晴らしい体験をしました。ヴェローナ野外劇場の《リゴレット》とナポリのサン・カルロ歌劇場《2人のフォスカリ》の録音は、私の宝物です。
サンティが逝って、アメリカの友人達からも悲しみの声が沢山届きました。「真のオペラの時代が終わってしまった」と。我々はこれから誰と働けばいいのでしょう?私達の時代は声のために歌い、オペラのためのオペラを創りました。今の時代は全てビジネスです。「真の感動」がないのです!彼の死と共に、私の世界も終わりました。全部やり切った満足感と共に、数カ所の公演を除いて、全てキャンセルしました。1981年に初めてスカラ座と行った日本には特別に行こうと思っていますが、サンティの死と共に私も引退します。 「音楽の友」4月号(2020年3月18日発行)より一部抜粋
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