昭和の時代、日本に「シャネルズ(のちに『ラッツ&スター』と改名)」という音楽グループがあった。40代以上の方ならもちろんご存じだろうが、若い世代にはその甘い歌声から「ラブソングの帝王」として知られる鈴木雅之さんがいたグループと言った方が分かりやすいかもしれない。ドゥーワップと呼ばれる黒人音楽を歌って人気を呼んだ彼らは、黒人音楽への尊敬の念を込めて顔を黒く塗っていた。当時、彼らのメーキャップが問題にされることは特になかった。ところが現代では、それは人種差別的行為とされる。
今年に入って日本のバラエティー番組が世界に思わぬ波紋を呼んだ。お笑い芸人の浜田雅功さんが、米国人俳優のエディー・マーフィーさんが映画「ビバリーヒルズ・コップ」で演じた役柄のまねをしようとして顔に黒いメークを施したことが海外で報道され、ネットで論議を巻き起こしたのだ。ニューヨーク・タイムズは、「Japanese Comedian Who Used Blackface Comes Under Fire(日本人コメディアン、ブラックフェイスの使用で批判される)」という見出しでこれを報じた。
日本でもかんかんがくがくの議論がなされた。国内で多く聞かれた意見は「浜田さんは単にエディー・マーフィーのまねをしただけで人種差別の意図はなかったのだから謝罪する必要はない」というものだ。差別意識がない人間が、黒人の扮装(ふんそう)で顔を黒く塗ることには何の問題もないではないか―。これは一見理にかなっているが、話はそう簡単ではない。
「ブラックフェイス」の持つ意味
米国社会において、ブラックフェイスという言葉は単に「黒く塗った顔」という以上の、歴史的な意味合いを持つ。19世紀半ばから20世紀にかけて、米国で「ミンストレル・ショー」というエンターテインメントが流行した。歌や踊り、そして漫談などで観客を楽しませる素朴な演芸だが、その中で人気を呼んだのが、顔を黒く塗った白人俳優が間抜けな黒人を演じる漫才だった。ブラックフェイスと呼ばれたこの演目は、映画やテレビの時代にも受け継がれ、1960年代の公民権運動の時代になってやっと終止符が打たれた。
ブラックフェイスは米国のアフロ・アメリカンにとって苦々しい記憶となっている。自分たちの祖父の世代がお笑いのネタにされた事実は、彼らにとって不快以外の何物でもないだろう。顔を黒く塗って黒人を演じるのは、意図はどうであれ彼らのトラウマを刺激する行為なのだ。こうした歴史的背景ゆえに、米国では黒いメーキャップで黒人に扮(ふん)することは一種のタブーとなっている。数年前には米国人女優のジュリアン・ハフさんが人気ドラマのキャラクターである黒人女性をまねたブラックフェイスを施すコスプレをして、大いに批判を浴びている。「単に黒人の肌の色をまねただけなのになぜ人種差別なのか」という意見に対する一つの反論である。
「日本は無関係」でよいのか
こうした見方に対し、それは米国史の文脈での話であって、日本には関係ないとする意見も多い。確かに日本においてブラックフェイスの持つ歴史的な意味を知る人はほとんどいない。浜田さんに悪意がなかったことも事実だろう。人種差別の意図はないのだから謝罪は不要、という言い分も理解できる。しかし、日本の国際化は急速に進んでいる。1997年におよそ150万人だった在留外国人は20年後の2017年には250万人近くにまで増加し、都市部の街角にはさまざまな人種が闊歩(かっぽ)している。そして、彼らはツイッターや会員制交流サイト(SNS)を使い、自分たちの見聞きしたものを世界に発信する。ましてオリンピックを控えたインバウンド(訪日外国人客)のラッシュが続いている今日、日本社会は世界から注視されている。「シャネルズ」が問題にもならなかった昭和ははるか昔のことなのだ。
意図しないことで不用意に人を傷つけた場合、賢明な対処には二つのことが必要だ。まず、自分の立場を明確に述べ、悪意がなかったことを説明する。その上で、相手を傷つけた事実に対し謝罪する。日常生活の単純なルールは、国際社会でも変わらない。(東京在住ジャーナリスト、岩下慶一=共同通信特約)