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  • 中 東生

フィルハーモニア・チューリッヒの奏でる『幻想交響曲』の意義


2012年、ファビオ・ルイージがチューリッヒ歌劇場管弦楽団の音楽総監督に就任した際に改名されたフィルハーモニア・チューリッヒは、その前身であったオーケストラも含めて音楽史上重要な役割を果たしてきた楽団である。そのフィルハーモニア・チューリッヒが独自のレーベル『フィルハーモニア・レコード』を持つようになり、初めて発表したCDがこのベルリオーズの『幻想交響曲』であるのは、一種の宿命すら感じられる。

1830年、26歳のベルリオーズは『幻想交響曲』を完成させたが、チューリッヒ歌劇場の前身である『Aktientheater(株式劇場)』は1834年からオペラを上演しており、それらの公演を担っていた30人ほどの楽団がフィルハーモニア・チューリッヒの源泉である。従って、この曲が生まれた当時の音楽に触れていたオーケストラなのである。

スイスは4つの言語圏が混在しているが、フランス語圏で最後にスイス連邦に加わったジュネーヴ州等は、フランス文化の影響を直接スイスにもたらした。彼らがスイス連邦に加盟して十数年後にベルリオーズが発表したこの革命的な交響曲は、当時の楽団員にとっても刺激的だったことであろう。そしてフランス音楽としての『幻想交響曲』を客観的に、しかし身近に実感して表現できる土壌を、この楽団は備えていたと言える。

1858年からはワーグナーがチューリッヒへ亡命しており、自分の作品を自らの指揮で上演するために、オーケストラ団員は70人に増員される。後にRシュトラウスも自作をチューリッヒで指揮し、また、フルトヴェングラーが若い頃にこのオーケストラを導いた時代もある。ナチス時代には、迫害を受けていたアルバン・ベルクの『ルル』やパウル・ヒンデミットの『画家マティス』などの初演をこの歌劇場が実現させており、このように激動の時代にも政治的制約を受けず、音楽界を牽引してきた楽団であった。

1944年にはラジオ・オーケストラが放送局から解雇されたため、このオーケストラの全団員をも受け入れ、142人の大所帯になった。そして、シンフォニーグループとオペラグループに分けられて活動を続けた末、1985年には正式にトーンハレ管弦楽団とチューリッヒ歌劇場管弦楽団に分割される。こうして後者はスイス唯一の歌劇場専属オーケストラとなったが、トーンハレ管弦楽団が抜けてしまった50人余りのチューリッヒ歌劇場管弦楽団は小さく、古びたオーケストラとなってしまうため、音楽的実力はもちろんのこと、意欲に溢れる若い団員を多く入団させ、実質上若いオーケストとして再生された。その転機から30周年を記念して『フィルハーモニア・レコード』が設立されたのである。

チューリッヒ歌劇場管弦楽団の芸術監督はヴァイケルトから、ヴェルザー=メスト、ガッティと移っていくが、その間にハイティンク、フォン・ドホナーニ、サンティ、メッツマッハー、メータなど多くの一流指揮者の元でオペラを演奏してきた経験は、オーケストラの奏でるフレーズを「歌わせる」勉強になったという。     

また、若い団員の意欲と好奇心から生まれた「オーケストラ・ラ・シンティッラ」も特筆すべき存在であろう。フィルハーモニア・チューリッヒの楽団員で構成されている古楽器編成のアンサンブルで、アーノンクールとの永年にわたる共同作業の賜物でもある。クリスティ、ミンコフスキ、ヘンゲルブロック、アントニーニ等とも共演し、フィルハーモニア・チューリッヒの主なレパートリーとなるロマン派音楽以前のレパートリーをカバーしている。

それに対して、現代音楽に対応する「オペラ・ノーヴァ」というアンサンブルも組まれており、

これらによって、古楽から現代曲まで全てのレパートリーの演奏を可能にしているのである。その他に室内楽アンサンブルはオーケストラの中に多数存在し、その活動もまた、フィルハーモニア・チューリッヒのサウンドに多彩な色を与えている。

彼らはチューリッヒ歌劇場管弦楽団の時代から、年に6回前後のシンフォニーコンサートを組み、オペラレパートリー以外の楽曲に常に取り組んで来た。「オーケストラピットの中だけで演奏していると、オーケストラ独自の音楽性が発展できない。舞台の上に乗り、歌手の伴奏から抜け出す経験が必要だ」という。1シーズンで250回前後のオペラ、バレエ公演の他に、現在では7、8回の交響曲コンサートを実現させ、さらに室内楽コンサートも充実させているのである。そうした努力が2000年に、ドイツのオペラ専門誌『オーパンヴェルト』が選ぶ『年間最優秀オーケストラ賞』を授賞される結果につながったのだろう。

そのような土壌の上にファビオ・ルイージは音楽総監督として就任した。「オペラのレパートリーのみならず、交響曲でも一流の演奏を披露できる」オーケストラとして世界に周知させるため、「訳する必要のないグローバルな名前」を求めてフィルハーモニア・チューリッヒと命名された。そして2013年9月29日の一回のみのコンサートがライヴ録音されて出来上がったのがこのCDである。その練習は合計5回あったが、普通の交響楽団は練習を重ねた数日の後、集中力を高めてコンサートに臨むのに対し、フィルハーモニア・チューリッヒは朝の練習と夜のオペラ公演を両立させるのであるから容易ではない。

それでもフィルハーモニア・チューリッヒの『幻想交響曲』はどのように特別なのだろうか。まずは、歌劇場管弦楽団としてドラマティックな音楽的盛り上がりを表現するのが日常の彼らにとって、ベルリオーズ自身が「器楽ドラマ」と定義し、後に「楽器によるオペラ」とも呼ばれたこの交響曲は、彼らの長所を発揮できる最適の楽曲だと言える。

それでいて、この曲は歌劇場管弦楽団として活動してきた彼らにとって、今までに十分な経験を積んできたレパートリーではないからこそ、各人に『幻想交響曲』に対する思い入れ、固定観念が少なく、新鮮さをもって、ルイージと音楽作りを重ねる事ができた結果、26歳のベルリオーズがこの曲に託した若々しさを表現することができたという。

ルイージは、オペラ指揮者にありがちな、独裁者的なマエストロではない。常に明確な表現の方向性を持ってはいるが、それを押し付けることはしない。楽団員は何よりも、「畏れを抱きながら演奏しなくてもよい」この関係を満喫しているようだ。

そしてルイージ自身が語るように、彼は「インタープレテーション(解釈)」という言葉が嫌いで「曲を通して自分が何を言いたいか」ではなく、「この曲をどのようにして精確に伝えるか」ということに重点を置いている。

この『幻想交響曲』でも「楽譜から自然に物語を語らせるように」楽想を創り上げていったという。「ルイージの読譜力は格別で、叙情詩的で繊細さに満ちている」と楽団員は評価する。それは指揮棒を振る動作にも如実に表れており、柔らかく、フレーズを愛でるような仕草で音楽を紡ぐ。そうして実現される音は、何よりも絶対的な透明さを生み出している。そうして、極めて主観的なこの作品を客観的に響かせるという逆説的な表現に成功している。

『幻想交響曲』の筋書きを形作っている情熱的で、細部まで繊細に描写されたドラマは、ベルリオーズの想像力が常に文学と音楽の2つの軸を持って形作られていく特徴があったことに起因している。そして彼はこの交響曲に『ある芸術家の生涯における挿話』という副題を与えた。

実際彼は1827年のパリで、シェイクスピアの『ハムレット』にオフェーリア役で出演していたアイルランド人の女優、ヘンリエット・スミスソンに一目惚れするが、まだ無名だった彼が有名女優に相手にされるはずもない。彼はその失恋体験を昇華させた『幻想交響曲』で、彼以前の、ベートーヴェンの交響曲第6番に代表される「標題交響曲」が自然描写を通した『私達』という概念を謳っていたのに対し、交響曲史上初めて『私』という概念を導入し、心情描写を試みたとフィルハーモニア・チューリッヒは捉えている。

第一楽章『夢、情熱』では、フィルハーモニア・チューリッヒが誇る弦楽器の音色で、「主人公に取り付いて離れない愛人の面影」の主題を繊細に、叙情的に奏で、オペラ公演で培った、「自己顕示欲よりも、慎み深く寄り添うような」アプローチで音楽を雄弁に語らせている。

第二楽章『舞踏会』でも、彼らの意図している「客観性」を維持しており、貴族的とも描写されるルイージらしい棒さばきが聴かれる。第三楽章『野の風景』は、根底から完全なる「静」が支えている演奏が印象的だ。

「この楽曲を支配するコントラストを際立たせることに成功している」と楽団員も語るように、第四楽章『断頭台への行進』からは美しいだけではない世界の描写にも力をこめる。

「ルイージは、もっと保守的で行儀の良いアプローチをするかと思っていたところ、エッジのきいた現代的な色を求めて来たので驚いた」というソロ楽器奏者もいる。ソロフレーズに込めた感情の吐露を抑制されるかと思いながら提示してみたが、思うように吹かせてくれたと喜びを語る。また、ルイージはこの曲で、今まで見せなかった顔をして指揮棒を振っていたという。冷静なコントロールの枠から意図的に外れるような傾向は練習中から既にあったが、そんな感情の爆発の予感が公演中に現実となり、それがポジティヴな方向へ作用して、臨場感溢れる演奏になったという。

それは特に第五楽章の『ヴァルプルギスの夢』において顕著で、これほど野性的なルイージを、フィルハーモニア・チューリッヒは初めて体験したという。それと対照的に、凛と響く教会の鐘のコントラストがこの楽章全体を引き締めている。

打楽器奏者は、「オーケストラが所有している教会の鐘を1オクターヴ低く響かせたいと思い、試行錯誤の末、大きなゴングを鐘の下において、同時に叩いて共鳴させた」と話す。日本語を操れる彼自身が『覚悟』という言葉を選んで表現してくれた「生と死に関わる重大な瞬間」を知らせる鐘の音がここに実現されている。これら全てがフランス風でモダンな色彩の上で繰り広げられ、一人の若い芸術家の人生を描写するのに適した、若々しくインテリな音楽を創り上げている。常にピアノから始まってフォルテに到達するフレーズ、明るいフランスの音、透明感が支配している珠玉の演奏となったことを、楽団員達は誇りに思っている。

(KING INTERNATIONAL INC.) ベルリオーズ:幻想交響曲 

フィルハーモニア・チューリッヒ/ファビオ・ルイージ(指揮)ライナーノーツより


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